日本語教育研究者育成奨学金インタビュー (令和3(2021)年5月27日)
国際日本研究学位プログラムでは、一般社団法人尚友倶楽部さまのご支援により、令和元(2020)年度から「日本語教育研究者育成奨学金」制度をスタートいたしました(制度の詳細は別ページをご覧ください)。
今回、昨年度そして今年度に奨学生として選ばれました飯田朋子さん(博士後期2年次)、日暮康晴さん(博士後期1年次)の2人にお話をうかがうことといたしました。将来、進学など大学院での研究活動にご関心をお持ちの方や奨学金にご関心をお持ちの方に少しでもご参考になればと考えております。
- 飯田朋子さん(写真右。博士後期2年次: 昨年度受給)
- 日暮康晴さん(写真左。博士後期1年次: 今年度受給)
- 聞き手(特任研究員)
―――まず、奨学金応募のきっかけはどのようなところからでしたか?
飯田さん
博士前期2年次の頃、国日の博士前期学生が全体で集まる機会があり、そこで先生方が紹介してくださったのが最初です。もともと博士後期課程に行きたかったのですが、もちろん研究をするための資金に悩みはつきものですから、応募してみようかなと思ったのが始まりです。
私は日本語教育分野の研究をするために進学を考えていたので、ご支援をいただける分野と私が貢献できる分野をうまくイコールで結ぶことができると感じた点は大きかったですね。
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日暮さん
私もおおむね同じです。やっぱり何だかんだいっても大学院に通い研究をするには資金が必要になりますから。自分自身も多少は働いていますし、親の援助もないわけではありませんが、コロナの影響はあります。ですから、やっぱりできるだけ自分でやっていこうという気持ちがありました。進学が前提だったというより、むしろ、こういう奨学金があることが博士後期課程に進学しようと思ったきっかけの一つになったと感じています。日本語教育学に支援してくれる方々がいる、という心強さがありました。
―――飯田さんの博士研究のテーマ、テーマ設定の経緯をお教えください。
飯田さん
もともと博士後期課程に行こうと思っていたのが前提でしたから、前期後期の5年間をフルに使うような研究テーマを考えていました。もちろん、それ以上かかるようなテーマですが、「技能実習生に対する日本語教育のカリキュラムモデルを開発する」といった構想で取り組んでいます。前期のテーマは「技能実習生と実際の技能実習現場の日本語母語話者との間のコミュニケーションがどのように行われているか?」といった点を明らかにすることでした。現場でのコミュニケーションを観察し、分析することで日本語教育上の課題を発見し、その成果を踏まえつつ実際の教育の改善にどう寄与するか、特にカリキュラムに注目して研究を進めているというところです。
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―――そのようなテーマを考え始めたのはいつごろからでしたか?
飯田さん
自分がこれまで育ってきた環境の影響は大きいですね。日本で働く外国人と日本人の間に起こる様々な問題や、外国人が地域に増えることによって日本人からあがる声など、日常の中から感じていた疑問や社会の矛盾など、そういったことからこのテーマについての研究の意識が始まっているとは思います。それを日本語教育学の分野で考えようとしているのは、日本語教育の射程の広がりとも関係があります。もっと具体的な話であれば、学類生時代の海外留学などで、元々持っていた疑問や矛盾点が精査されていった時期があり、そこから外国人と日本人の関わりというところについて、5年10年スパンの研究テーマにすることにした、というところでしょうか。
―――日暮さんの博士研究のテーマ、テーマ設定の経緯をお教えください。
日暮さん
自分は、飯田さんと真逆な感じです。日本語教育の現場や学習者との関わりが好きですので、もともと前期を終えたら社会へ出ていこうと思っていました。しかし、進学することに転向したのは理由の一つは修論にありました。修論を書き終えてみて「これはもっとできるな」という感覚が芽生えて、そのまま進学することを考えました。付け加えるなら、コロナ禍という時期にあたってしまい、いったん外に出てから戻るというのはしづらくなったのもあります。また、修士の間に学生をしながら働ける環境も構築していたので、「ある程度自分で生計を立てながらできそうだ」というのもありました。
そもそも修論のテーマは「程度副詞『とても』に代表される被修飾語の意味の程度を限定・強調する表現がどのようなバリエーションを持って使い分けられているか」でした。特に、文法の面ではなく、実際の使用の場面で会話相手との心的距離の調整のために行われているのではないか?という仮説から調査して執筆しました。今のところ「とても」とその基本類義語を対象にしていますが、語レベルでの違いに注目するだけでなく、より広い表現カテゴリ全体にも応用できるかもしれず、そこで博士研究としての発展性を考えています。
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―――そのようなテーマへの関心はなぜ生まれたのですか?
日暮さん
修士研究では初級日本語教育の中で出てくる言葉を対象にしていたのですが、たとえばもっと砕けた言葉…「めっちゃ」とか「オニ(鬼)」とか「バリ」とか…ものすごく幅広い種類の語があることに興味が湧いてきました。実際日本語教育関係者や学習者の方々と話をしてみると、そういう俗っぽいものこそ学習者の興味を引いているようだということも感じます。基本語については教科書的な説明はあるのですが、まだコミュニケーションの文脈(場面や人間関係など)に応じた細かな整理がされきっていないのではないかと感じています。今までの日本語教育は意味的な側面に重点があり、例えば「とても」を付ければ程度を強めるには十分なんですけど、実際に修論で発見したことは、現実の会話ではあまり「とても」を使わず、むしろ同条件で「すごく」を使ったりすることでした。そうした発見をできたので、これからそういった表現をたくさん洗い出して差異をしっかり検討してみよう、そういう点で修論からもっと広がっていけそうだと感じました。
―――ご自身の博士研究に含まれる「新しさ」、現時点では言いづらいかもしれませんが、どのようにお考えですか?
飯田さん
様々な背景があるのですが、技能実習制度は1993年に制度化され、そこから発展・変化していったものです。また、最近では2019年から特定技能というものでの新たな外国人材の受入れが可能となっています。外国人材や外国人労働者の受け入れはダイナミックに変化していて、研究をどんどん進めていかなければならない分野だと考えられます。日本で働く外国人の方への日本語教育、帯同して日本に来ているご家族やお子さんへの日本語教育というように、今後考えていかなければならないことは多岐に渡り、日本語教育を必要とする人たちの幅は広がっています。そういった中で、私が行っていることそのものが新しい研究であると言えますし、現代社会においても、今後の社会においても必要な研究であると考えています。
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日暮さん
日本語教育の中で「副詞」にあまり焦点があたってこなかったことがあり、そこに改めて焦点を当てるだけでも意義があるはずです。しかも、副詞の差異がコミュニケーションの中で意義を持ってくるんだというのが言えればさらに、です。日本語教育だけでなく、世界中の言語教育が質的に変化してきていて、学習者が「いつ」「だれ」と「どういう状況」で「何のため」に使う言葉なのか、ということに注目して教育を行う…学習者主体的な教育を考えていこうという潮流があります。それを考えた時に、最初から「とても」を教えなきゃいけない理由はない。友達とコミュニケーションができるようになりたいのなら、ごく普通に使われる「すごく」のほうが学習者主体的なのではないか?というように、言葉をどう使い分けて行くかからアプローチして、より望ましいコミュニケーションに貢献できる。その部分に、あまり注目されてこなかった副詞というカテゴリから寄与できる、というところが新奇性に近い意義なのではないかと思っています。
―――またしても難しい質問ですが、研究を通じて、どのような社会還元をお考えですか?
日暮さん
今のところは、やはり学会発表や論文投稿を通しての貢献を考えています。実際に教育実践に関わる先生達が多いところで発表するとか…そういうところでしょうか。また、指導教員の先生と作成中の日本語教育用のオンラインコンテンツがあるのですが、そういう所に自分の発見を取り入れていくなども考えられるかと思います。そもそも分野として、日本語教育のオーディエンスは研究者であるだけでなく実践者でもあるという方が多く、さらに場合によっては学習者も控えています。ですから、研究発表それ自体が少なからず教育現場への貢献になっているのかなとは感じています。ただ、それだけではリーチできない方たちにはどうするか?という問題は残りますね。自分が独りで何をやるかということだけではなく、身に着けた専門的な知識を活かせる組織に入って、力を合わせてやっていくことも大事なのかなと思います。また、別のアプローチとして、学習者と一緒に何かを作り出して、それを一般的な、日本語学習者や日本語教育をあまり知らない人たちにも見てもらう…という可能性もあるかと思います。
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飯田さん
奨学金では、学費負担と研究助成という形でご支援をいただきました。研究助成については、研究調査のための海外渡航費にしたいと思っていましたが、コロナのために大学からも海外渡航の禁止が決められてしまったため、機材や書籍の購入に使わせていただきました。私の研究では録音や録画データを編集して分析を行ったりするので、ある程度の高スペックな機材は不可欠でした。もちろん書籍も自分で持てるものならとてもありがたいです。そういったご支援のもとで、学会発表、論文投稿、今であればオンラインでの発表の場も多いですから、そういったところでの発表を行っています。また、例えばカリキュラムモデルを作るといった話は、実際の教育現場に入って観察するというだけでなく、研究者・教育者自身がカリキュラムを作成し、実践したものをまた改良し、実践報告を行っていくということまでが必要であるとも考えています。社会に還元できる研究というところであれば、私が最終的に目標としているカリキュラム構築・作成というのは、目に見える形での教育・研究の社会還元と言えるのではないでしょうか。
―――最後に、後輩たちへのアドバイスをお願いできればと思います。
日暮さん
偉そうなことは言えませんね。同級生として「M1/M2の学生」といわれると横並びでみんな同じように感じますが、それぞれの状況は見えないところで全く違うはずです。ですから、表に見える何かを見て「あの人は頑張ってる」でも「私は頑張ってない」と気にしても仕方がないとは思います。ただ、まあ、何かやれば絶対に結果が出るとか、努力が必ず報われるとは言えませんが、何かやらないと結果は出てこないので、何かできることをやるしかない・やってみましょう、というところでしょうか。
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飯田さん
「やりたいことをやるのが一番だ」と私自身は考えています。しかし、常に全てが成功するわけではないですから、「それができれば苦労はしない」というのも真だと思います。ただ、私自身はあまり「失敗する・した」と考えたことがないような気がします。何かをやってみようという時は、長いスパンで見た方がいいんじゃないかと思います。一回何かがダメだったとしても、次のための何かだったと考えることはできますよね。そして、次にうまく行けばいいわけです。もし、またダメだったとしてもまた次の何かに繋がっている可能性はあります。また、金銭的な問題や周囲からの理解の問題などで、やりたいことができないといった逆の抑圧もありえます。これは当事者意識として大変よくわかります。しかし、自分の人生は自分で決めるもので、誰かに決められるようなことではないと私は考えています。「やりたいけどできない」と考えてしまいがちな方こそ、自分がやりたいことを自分でやるために、こういった奨学金などに挑戦することを考えてみてもよいのではないでしょうか。
―――お二方、インタビューをお引き受けくださって本当にありがとうございました。
(ネットワーク・広報委員会より)
June 10, 2021. Posted by IAJS.